「自分を嫌いになる」不可能さ

「自分のことが嫌いだ」という人は、「自分ではない何か」と「自分」とを取り違えている。

 

それは、性格かもしれないし、容姿かもしれないし、過去にやった行いかもしれない。
いずれにしても、それは「本当の自分」ではない。

 

自分のことが嫌いだと思ってる人は、自分の舌の味がカライとかニガイとか言ってるようなもんだ。
自分の舌の味なんて、どう舌をねじったところで確認できやしない。
自分の舌がおいしいとか、まずいとか、判定することはできない。

 

それと同じで、「自分」とは、自分のことが好きとか、嫌いとか判定できる対象物ではない。
自分のことを、他の何かと取り違えて「嫌いだ」と言ってる人に向かって、まずは「自分を愛しましょう」と言ってる人もいるが、そもそも、自分ではないものを自分だと取り違えている人に向かって、そのねじれを解くこともなく、嫌いだったものを、好きになれというのも、おかしな話だ。

 

「自分の舌の味をおいしいと思いなさい」とさとしているようなもんだ。

 

自分とは、愛されるものではない。
自分を、他の何かと取り違えたまま、その自分を愛そうとしたところで、舌がこんがらがって疲れるだけ。
いや、取り違えの勘違いが、さらなる勘違いを生むだけだ。


本当の自分は、まったく悩んではいない。
なぜなら、自分こそが、好きも嫌いもない、非二元の愛だからだ。

 

追伸
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